- 太陽は人間の歴史が始まって以来、常に全能のシンボルとして崇拝され、そして古代人は太陽の恵みを積極的に利用していたことが分かっています。
- 古代エジプト人は、太陽神ラーを信仰し、日光浴や日光療法を行ったことが遺跡や記録で残っています。エジプトでは王をファラオ(太陽の子)と呼ぶことから、太陽の効果が重んじられていたのが分かります。
- 古代ギリシャでは、現代医学の祖とされる医聖ヒポクラテスが、「日光の光と熱は、すべての創傷、殊に開放性骨折、破傷風等に効果がある。」と述べています。また、医師ヘロドトスは、病人が健康を回復する上で日光療法が果たす有用性を強調しています。その後、外科医アンチロスは、「如何なる患者もなるべく日光に当たるようにすべきである。」と記しています。
- 他にも古代ローマやインドやペルシャなど多くの地域で、太陽光線の恩恵を信じ礼賛しています。
- 物理学者ニュートンが、白色光をプリズムに屈折させ七色の色帯(スペクトル)を立証。可視光線を発見。(1660年)
- 天文学者ハーシェルが、赤外線を発見。(1800年)
- 医師リッターや物理学者ウォラストンが紫外線を発見。(1801年)
- 18世紀中頃、オーストリアのアーノルド・リックリーやフランスのボンネーは医師ではなかったが日光療養所を開設。近代の日光療法の先駆けとなります。
- 1877年、イギリスのダウンスとブラントにより太陽光線には殺菌作用があることが発見され、次いでストゥレーベルにより殺菌効果の作用波長は紫外線であることが明らかにされます。この頃より紫外線の作用が注目されるようになり、日光療法は飛躍的な発展を遂げます。
- 1903年、スイスの外科医ロリエ博士は、スイスアルプス山中に局所的日光療法に全身の日光療法を併用した日光療養所を造り、外科的結核に予想以上の効果を挙げます。
- 最初の人工光源は、エジソンが1880年代に発明した照明用の電球であります。この発明の直後から、電球を光源に用いた光線療法が電光浴の名で行われたが、放射エネルギーは低く、紫外線を含まないため、光線療法の光源にはなり得ませんでした。
- 1893年、デンマークのニールス・フィンゼン(下記写真)は、光線療法のための光源として、世界で初めて太陽光線と同じ連続スペクトルの光線を放射するカーボンアーク灯(フィンゼン灯)を考案し、当時は不治とされていた尋常性狼瘡の治療に成功し、1903年度のノーベル医学生理学賞を授与されます。それ故、フィンゼンを「光線療法の父」と呼んでいます。
- 1906年、クロマイエルが、紫外線を単独に豊富に照射する紫外線灯を作成します。現在でも病院で用いられている管球方式の先駆けです。
- 1919年、ベルリンの小児科医ハルトシンスキーは、紫外線がくる病を治す自然の巧妙なからくりを発見し、くる病の治療に輝かしい成功を収めます。
- 1930年代、ドイツのアドルフ・ウィンダウス(下記写真)は、皮内の7-デヒドロコレステロールこそビタミンDの前駆物質(プレビタミン)であって、これに紫外線が作用してビタミンD3に変わると、極めて強力な抗くる病作用があることを解明し、1938年にこれらの功績によりノーベル化学賞を受賞します。
- 1958年、イギリスのクレマーらは可視線の新生児重症黄疸に対する治療効果を報告します。1968年、アメリカのルーシーらがクレマーらの報告の正当性を確認し、その後全世界で用いられます。
- 1908年(明治41年)東大医学部皮膚科の土肥慶造博士は、カーボンアーク灯の前身であるフィンゼンライン灯やその他様々な紫外線発光装置を輸入し、医学界に紹介すると共に自らもこれらを利用して治療を行い、理論的研究が行われます。
- ヨーロッパで発達した近代的日光療法は、今世紀初頭には日本に移入され、次第に注目を引くに至ります。中でも、正木不如丘博士は大正15年に長野県諏訪郡に日光療法の専門施設として富士見高原療養所を開設され、結核の治療を中心に多大な貢献をされます。
- 明治、大正、昭和初期にかけて官公立の大学病院で行われてきた光線療法は、大正から昭和にかけて民間療法に引き継がれることになります。民間療法では太陽光を用いての光線療法が行われ、昭和2年当時には太陽光線治療器を用いて行う治療所が日本全国で120カ所もあったといわれています。
- 太陽光線治療の全盛期が終わり、光線治療所でカーボンアーク灯療法が行われるようになったのは昭和の初めの頃です。カーボンアーク灯の出現は治療家にとって待望のものでした。昭和15年当時には東京都だけで光線治療所が150カ所以上あったといわれています。